グイノ・ジェラール神父の説教


C 年

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           年間第13主日C年     2013630日   グイノ・ジェラール神父

              列王記上19,16,19-21  ガラテヤ 5,1,13-18  ルカ 9,51-62

   今日のすべての朗読は、神の呼びかけに人が与えるべき即時の答え、ためらいのない答えについて述べています。 神は忍耐強く、怒るのに遅いお方ですが、特別な使命のために人を選ぶ時には、神は待つことが嫌いです。 何故なら、神の愛と救いのみ業は いつも人間の正当な必要をしのいでいて、何よりも大事ですから。 家族に別れを告げることや親戚の葬儀に参加することよりも、神の呼びかけが重大です。 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われたキリストは、神の呼びかけがどれほど大切かを教えています。

   実に、主の後に従うためには、呼ばれていると思い込んでいる人がよく考えなければなりません。 そして彼の召命を識別できる専門家の勧めが必要です。 確かに、司祭や修道者になるためには何年間もかかります。 しかし神の呼びかけを聞いた途端、人の心から答えがすぐ湧き出るはずです。 召命が確かな揺るぎないものであるかは、時が決めるでしょう。 しかし呼ばれた人が条件なしに、直ぐに「はい、主よ」と答えるのは、神の大きな喜びです。

    アブラハムのいけにえは特に神のやり方をよく例証します。 御存じのように、神はアブラハムに息子イザクを生贄として捧げるように願いました。 アブラハムは従順に従いますが、急に神は息子を殺そうとするアブラハムの腕を止めました。 神に示されたアブラハムの従順のために彼は「大勢の人の父」となる約束と使命を受けました。 このように、私たちの「はい、主よ」を受けながら、神は先ず私たちの愛と信仰を試し、その後使命を与えられます。

    イエスを信じるから、私たちは神のすべての呼びかけに直ぐ答えるように要求されています。 そう言う訳で、使徒パウロはコリント教会への手紙に次のように書きました。 「神の愛がわたしたちを駆り立てています」(2コリント5,14)と。 聖パウロと彼の道連れの仲間たちは、救いの良い知らせを伝えるために絶えず移動しました。 なぜなら、キリストの福音のメッセージと、神の慈しみの知らせは、待つことが出来ませんから。 これに対して放蕩息子のたとえ話を思い出しましょう。 慈しみ深い父は大急ぎで失った息子の方へ迎えに走ります。 同様に、悪を滅ぼし、被造物をあがなう十字架の神秘の結果を、父なる神はあらかじめ聖マリアの内に実現しました。 マリアは無原罪の聖母となったように、私たちも、既にキリストの受難と復活によって救われた、あがなわれた神の子です。

    キリストに従う事と受けた洗礼の約束に対して忠実である事、それはまさに同じことです。 もっと大切なもの、もっと優れたものを得るために、何かを捨て、退けるように信仰は絶えず要求します。 キリストに従うことは、自由になるために、私たちを縛られるものを切り落とすことです。 聖パウロがガラテヤ人に思い起こさせるのはこのことです。 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(ガラテヤ5,1)。

    イエスは未練や自分を縛るものが一つもなく、自由に暮らす人として現れます。 イエスは頭をのせる石が無い(枕する所もない)、彼はいつも村から村へ移動します。 イエスは私たちに同じ自由を望んでいます。 イエスは私たちの歩みを妨げと縛りの全ての物事から自由にしたいのです。 私たちが、ある場所、ある状態、意見、偏見、裁き、習慣、後悔などに固まっている状態、特に犯した罪にずっと止まらない決意を持つようにイエスは望んでいます。

   聖パウロがガラテヤ人に願ったように、神の子の自由に生きるために私たちを奴隷とする繋がりを切り落とす覚悟をしているでしょうか? キリストが与える自由は、聖霊によって生かされ、導かれている新しい人、新たにされた被造物として私たちを形作ります。 そうなるなら、「後ろにあるものを忘れて、前のものに全身を向けつつ」(フィリピ3,13)キリストに従って忠実に歩み続けましょう。 そうすれば、必ず私たちの人生が神の豊かさと生命力で満たされるに違いありません。 アーメン。



             年間第14主日C     201377日  グイノ・ジェラール神父

               イザヤ66,10-14  ガラテヤ6,14-18  ルカ10,1-12,17-20

   キリストに遣わされた72人の弟子の名前は知られていません。 しかし、イエスはすでに12人の使徒に委ねた同じ使命を、この72人の弟子にも授けました。 遣わされた先から帰って来た時、彼らは皆、口々に喜びを表しています。 この当たり前の喜びをイエスは、彼らと共に遠慮なく分かち合います。 使徒たちが得た成功のために喜ぶのは 当然ですから。 成功はいつも努力の目に見える結果です。 72人の弟子たちの喜びは、母の胸に抱かれている乳飲み子の喜びによく似ています。 彼らの喜びは純粋で清らかなので、神の心を満たします。

   パウロが抱いている喜びとは、全く違うもので、私たちを面食らわせるものです。 というのは、キリストに対して与えた証しと、信仰の宣言の故に受けた苦しみと屈辱からパウロが自分の喜びを見出すからです。 聖パウロは絶対に「マゾ」即ち、苦しみを好む人ではありませんが、キリストの為に苦しむことを自慢と喜びとします。 何故ならこの苦しみのお蔭で、彼は増々キリストに似る者とされるからです。 今日の福音の72人の弟子たちと違って、パウロは「小羊が狼の群れに遣わされたことを」具体的に体験しました。

   しかし、キリストの証人たちが遣わされたのは、「えじき」になるためではなく、むしろ敵意を持っている状況の中で、神の祝福をもたらす為に遣わされています。 敵の真っ只中に自分の弟子たちを遣わすことによって、イエスは預言者イザヤの預言を実現しようとしているのです。 その預言は「狼と小羊は共に草をはむでしょう」(イザヤ6525)。 そういう訳で、自分たちを守る為に、弟子たちが杖を持つことは禁じられていました。 イエスの名と彼の与える権威だけが、弟子たちの唯一の守りです。 イエスの弟子たちは皆、何よりも先ず神の国を目に見えるものとする使命を受けました。 彼らは平和の働き手として定められたからです。

   弟子たちは誰をも強制的に信じさせようとしないように、彼らは何も持ってはいけません。 弟子たちの証しは、謙遜、親切さ、忍耐、根気、そして必ず祈りと断食で満たされています。 弟子たちが色々な風に、出会う人々と絆を結ぶ為に、何も持たない者としてキリストに遣わされています。 自分の死を望んでいた人々の侮辱とあざけりに対して、イエスは一度も答えようとしませんでした。 使徒ペトロはこれに対して、第一の手紙の中で心を動かされる証しを残しています。 「キリストはあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと模範を残された・・・ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅しませんでした。」(1ペトロ22123

   平和の僕となることは 悪の力を後退させることです。 平和の挨拶のお蔭で病人が癒され、悪霊が追い出されています。 そして悪から解放された人々が、神の国を受け留めることが出来るのです。 神の国は平和、正義、愛の国です。 というのは、弟子たちの平和の証しを通して人々は「神がとても近い方だ」ということを感じて体験します。 同時に、人々はイエスの名は、癒しの泉であることも具体的に体験します。 キリストの宣言された名によって、行われた奇跡を受けた人々、或いは奇跡を見た人々がどうしても「ナザレのイエスは誰であろうか?」について考えざるを得ませんでした。

   ミサ祭儀毎に私たちは、父と子と聖霊の名で自分自身を祝福します。 この十字架の印は 私たちの内に三位一体の聖性と全能を置くのです。 これについて私たちが十分明白であると言えるでしょうか。 まるでハエを追い出すように、ぞんざいに十字架の印をする人々はきっと神が彼らに与えようとする救いと平和と癒しを考えていないでしょう。 洗礼によって私たちが、キリストを衣として着たからこそ、私たちは「キリスト者」と呼ばれています。 従って私たちは、この世と自分たちの周りに平和を築く人となるように遣わされています。 私たちは人々にイエスについて何かを伝えることではなく、イエスご自身を伝えます。 ですから、謙遜にこの使命を果たす為に聖霊が私たちの助けとなりますように。 そして私たちの手を通して、神が救いのしるしを現されますように。 このしるしを見て、人々がきっと救い主であるイエスを信じるようになるに違いありません。 アーメン。



       年間第15主日 C年      2013714日   グイノ・ジェラール神父

                申命記30,10-14  コロサイ1,15-20  ルカ10,25-37

    「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうかとある律法の専門家がイエスに尋ねました。 私たちも皆、天の国に入りたいのです。 ところが、天の国に入る為に私たちがするべき最良の手段は、一体どのようなことであるかを探しているでしょうか?  私たちは永遠の命を受け継ぐために、実際に最も効果的な方法を選ぶように充分考えているでしょうか?

    勿論、聖書は正しい答えと方法を提案しています。 例えば、神の声を聴く事、掟を守る事、イエスが復活したことを信じる事、あるいは洗礼を受ける事、そして自分の信仰を証しする事などです。 しかし、これらの手段で本当に充分でしょうか? いいえ、それだけでは充分ではありません。 それらに加えて聖書もイエス自身も、貧しい人々、病人、外国人、捕虜にされた人々の世話を勧め、更に正義、赦しと愛徳のあらゆる行いを要求します。

    神との交わりを味わう可能性や永遠の命を受け継ぐ力は、私たち自身の内にあるとモーセは教えています。 この力を得ることは難し過ぎるものではないし、遠く及ばないものでもありません。 それは私たちの口と心にあるとモーセは断言します。 そう言う訳で、私たちは何を考え、何を言い、何をするかについて、よく注意を払うことが必要です。 聖パウロにとっては、神の国に入る可能性がキリストとの一致にかかっていると教えました。 神は御心のままに、全ての物が余すところなくキリストの内に全うされることを望んでいる(参照コロサイ1,19)と聖パウロはコロサイの手紙を通して説明します。 やはり、今から後、「私たちの人生は、キリストと共に神の内に隠されている」(コロサイ3,3)からです。

    神の掟を思い出すことによって、また一つのたとえ話を語ることを通して、イエスは律法の専門家の質問に答えようとしました。 神の掟に対する従順と隣人への愛とは、天国の両開きの門です。 イエスにとって、従順によって示された神への愛と、具体的な行いによって実現された隣人への愛は切り離せないものです。

    「自分のように隣人を愛すること」(レビ記19,18)は、 先ず自分自身を愛することを要求すると同時に、次の二つの質問に答えるように願います。 それは「愛するとはどういう意味でしょうか?」そして「隣人とは誰でしょうか?」という質問です。 自分を愛することも信仰の歩みです。 私たちが愛されている者だという事を信じなければなりません。 それは、私たちが優れた才能があるからではなく、あるいは、私たちの素晴らしい実力のお蔭でもなく、ただ無償で条件なしで、生まれる前から神に愛されているということだけです。 人が社会的な立場や社会的に有用な存在であってもなくても、神の無償な愛だけは人間の値打ちと尊さの土台であります。 もし、私たちに対して神が示す無償な愛を拒むなら、私たちは決して隣人愛の掟を実践できません。

    では、「愛することは」一体どういう意味でしょうか? 神は愛であるので、私たちに絶えず話し合うのです。愛である神は永遠の命の言葉です。 従って「愛することは」誰かと繋がりと絆を結ぶことです。 イエスは奇跡を行なうよりも度々人々の話を聞いたり、人々を教えたりしました。 話し合い、励まし合い、あるいは罪を赦し、平和の言葉を与えながら、イエスは具体的に自分の隣人を愛そうとしました。 愛することは何かをすることよりも、先ず誰かと話すこと、即ち、誰かと繋がりを結ぶことです。 イエスが語る隣人とは、誰かと繋がりを結ぶように、その人に近い者となる時の私たちです。実に、私たちは皆相手が誰であろうとその人々の言いたいことを注意して聞く事や、彼らと平和の言葉を語る事の出来る隣人にならなければなりません。

    確かに、自分たちと他の人の間にある隔たりを超えようとする時だけ、私たちは隣人になるのです。 隣人になるためにどうしても隣り合った極親しい関係の状態を作らなければなりません。 ここで自由の行いが要求されています。 ご存じのように、神ご自身が私たちの隣人になりました。 実際に、神は傷だらけの私たちをいやすために、とても近くに来られるあの良いサマリア人です。 更に、私たちの深い傷をすべて背負うことによって、神は強盗に襲われて生死の境をさ迷って、道で倒れている旅人でもあります。 そう言う訳で、神が必要とする助けを差しだすために、私たちは神の隣人となることを望んでいるでしょうか? その答えは私たちから遠くにありません。 モーセが教えたように、この答えは私たちの口と心にあります。 ですから、ためらわずに心から神と話しながら、神と親密な強い絆を結びましょう。 そうすれば、天の国の門が私たちのために大きく開かれるでしょう!    アーメン。



          
年間第16主日 C     2013721日    グイノ・ジェラール神父

                創世記18,1-10   コロサイ1,24-28  ルカ10,38-42

    マルタはラザロとマリアの姉妹であることをルカの福音が教えています。 ラザロとマリアはエルサレムの近くにあるベタニアの村で住んでいます。 マルタは他の所の自分の家に住んでいます。 マルタがイエスを誘った時、マリアはマルタの家を訪れました。 彼女はお客様として姉のもてなしをイエスと彼の仲間と一緒に受けます。 イエスとマルタはお互いに良く知っているし、二人の間に自然な親密さがあることは、彼らの話し方でよく分かります。 そういう訳でイエスは遠慮なくマルタのもてなしを受け止めます。 しかし、聖書の中でイエスが婦人のもてなしを受けるのはこの一回だけです。

    習慣的にイエスは、食事の誘いに直ぐ応えます。 イエスはマタイとザアカイの徴税人たちの家にも、ファリサイ派の人々と律法学者の家にも遠慮なく訪れます。 伝統によれば、イエスはマルコの家で最後の晩餐を行いました。 この家は後で初代教会の人々の集まる場所となりました。 もてなしを捧げる人々に、イエスは先ず自分の言葉を差し上げます。 イエスの言葉は人々を回心させ、いやし、救い、そして人の心を満たします。

    マルタとマリアはもてなしの二つの役割を分けて果たします。 マルタは食事の為に忙しくなり、マリアはイエスの要求に応える為、また彼の訪問を楽しくする為にイエスの傍に座ったまま、彼の話に耳を傾けます。 イエスと12人の弟子を養うためには、時間が必要です。 マルタはイエスに自分の友情を示すと同時に、最もよい歓迎をする為に活発に働いています。 忙し過ぎてマルタはイライラしながら、妹の助けを要求します。 何もしないマリアを見て、マルタは直接にイエスに自分の不満を投げ出します。 イエスは落ち着いた状態で「妹マリアが最もよい方法を選んだ」とだけ答えます。 と言うのは、マリアはもてなしの一番楽しくて楽な部分を選んだので、それを誰も奪うことが出来ません。


    しかし、そんなことでは誰も騙されないように。 マルタはもてなしの最もしんどいことをしているかも知れませんが、イエスご自身が晩餐の時、自分の弟子たちの為に彼女がした同じことをするでしょう。 人に仕える者となることは、キリストの目には最も値打ちのある役割です。 マルタの間違いは、思い悩み心を乱していることです。 「いちばん偉くなりたい人は、すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9,35)と言って、イエスは次のことを加えます、「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」(マルコ10,45)と。 とにかく、もてなしの為にマルタとマリアは互いに補い合い、どちらも他の人よりも勝っていません。

    「マリアは主の足元に座って、その話に聞き入っていた」とルカは説明しました。 弟子たちの良い態度を描くために、ルカは度々この書き方を使うのです。 たとえば、数えきれない程の悪霊から解放された人は イエスの足元に座っている(ルカ8,35)と、ルカは書きます。 また、使徒言行録を書いたルカは、パウロもエルサレムで学生であった時に ガマリエル先生の足元に座っていたと書きました(使徒22,3)。 従ってルカは、マルタの妹マリアをキリストの真の弟子として見せようとします。 このことはとても驚くべきことです。 なぜなら、キリストの時代に女の人は絶対に「勉強する弟子」になることが出来ませんでした。 当時の婦人たちは、家の中に閉じこもったまま家事のことだけをするように定められていたからです。

   イエスは自分を招く人々に、いつも自分の言葉を聞かせ委ねます。 イエスの言葉は豊かであり命をもたらします。 同じように神にもてなしを与えたアブラハムは、神から命で満たされた豊かな言葉を受けました。 アブラハムのもてなしに応えて、神は年老いた妻サラの胎内に肉となる言葉を与えました。 彼女は一年後イサクを生むでしょう。 同様に、マルタとマリアのもてなしに応えて、イエスは豊かな言葉を与え、その言葉は全てに勝るのです。 カファルナウムの百人隊長は、イエスに次のように答えることによって、キリストの言葉の豊かさを感じていました。 「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 ただ、ひと言おっしゃってください。 そうすれば、わたしの僕はいやされます」(マタイ8,8)。

    今日こそイエスが私たちのもてなしを行います。 イエスは私たちに対して、もてなしの二つの役割を行います。 イエスは同時に歓迎する方であり、私たちに仕える僕でもあります。 このようにして、イエスは同時にマルタとマリアの役割を果たします。 イエスは確かに私たちに語り、私たちを養い、そして私たちの話に耳を傾けます。 「キリストは私たちのうちにおられる栄光の希望です」(コロサイ1,27)と、パウロはコロサイの信徒への手紙の中に書きました。 ですからイエスが私たちに言いたいことに耳を傾けて、言われたことを実現するように努力しましょう。 それは「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14,23)。 私たちが皆、この喜びを深く味わうことが出来ますように。 アーメン。



             年間第17主日C年    2013728日   グイノ・ジェラール神父

                創世記18,20-32  コロサイ2,12-14  ルカ11,1-13

   アブラハムやモーセ、ヨブ、エレミヤ、聖書の詩編や色々な聖人たちは、神への尊敬を失わずに神と共に議論する事や討論することが可能である事を教えています。 このようにアブラハムとモーセは悪を行っている人のせいで、無罪の人が罰を受けないように神に真剣に議論して執り成しています。 「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか?」(創世記18,23)とアブラハムは神に言い返します。 「主なる神よ。 あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。」(申命記9,26)とモーセは議論します。 「いつまで私たちを忘れるのか? いつまで御顔を隠すのですか? 主よ、いつあなたが私たちを見て、私たちの叫びに耳を傾けるのですか?」と聖書の詩編は繰り返します。  そして預言者エレミヤは受ける迫害と自分の宣教の失敗について絶えずうめき、神に訴えます(エレミヤ20,1-10)。

    罪びとの為にも、正しい人の為にも、絶えず執り成す人々は神にとって欠かせない者です。 そういう訳で復活されたキリストは父である神の前に立って、私たちの為に執り成します。 キリストの執り成しに天使と聖人が自分たちの祈りを加えながら、キリストは父なる神に御自分の受難の傷を見せています。  神は「悪人が死ぬのを喜ばない」(エゼキエル33,11)お方です。 聖パウロは私たちの罪が赦されたので、神がキリストの内に生きる恵みを全ての人に与える事を思い出させます。 これに対して私たちはどのように神に自分の感謝を表しているでしょうか。 私たちが既に救われた人の数に数えられているので、神から離れる人、或いは神の救いを拒む人の為に私たちは 十分に執り成しているでしょうか。

   ソドムの町に10人の正しい人がいるなら 神がこの町を滅ぼさないようにと アブラハムは切に願いました。 ところが、創世記の話はソドムが破壊されたことを語ります。 しかしアブラハムの親戚であるロトとその家族の5人だけが救われたことを教えています。 悪人であっても、正しい人であっても、神は人が死ぬのを絶対に望まないお方です。 特にエレミヤの預言を通して神は、ご自分の心の秘密を打ち明けました。 「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。 広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか 正義を行い、真実を求める者が。 いれば、わたしはエルサレムを赦そう」(エレミヤ5,1)。 このように、ただ一人の正しい人の為にだけでも、神はすべての人を赦す覚悟をしています。 預言者イザヤは不正によって殺される、この唯一の正しい男を告げました。 「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。…彼が、自らをなげうち、死んで罪びとのひとりに数えられたからだ。 多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」(イザヤ53,11-12)。

    イエスは神の完全な僕として、全世界の救いを可能とした正しい人です。 ヘブライ人の手紙がどのようにイエスが神に対して、私たちのために執り成したかをはっきりと教えています。 「キリストは激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、神に祈りと願いとを捧げました。」 そして、死んで復活されたイエスは「御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となりました」(ヘブライ5,7-9)。 そういう訳で、イエスは、ご自分イエスと共に心を合わせて 世のために祈る事と、執り成す事を私たちに教えています。

    執り成しの祈りは長い説明を要求しません。 実に執り成す人はすべての人が救われるように、そしてこの世界がより良くなるように神に自分の希望を委ねる人です。 執り成す人は神の計画をひっくり返すことや、神に迷惑をかけることも恐れてはいけません。  今日の例えを通して、イエスはそれをはっきりと教えています。 即ち、真夜中にある人が急に訪れてきた客に何か食べさせるために、眠っている友に必要なパンを願います。

   だが、私たちの祈りは直ぐ叶えられないでしょう。 祈りは決して能力の行いではなく、また強制するものでもありません。 むしろ祈りは私たちの惨めさと無力の現れであり、それによって私たちは信頼の内に何も恐れずに私たちの期待と希望を表現します。  執り成しの祈りは特に私たちが持っている希望の現れです。 というのは、祈りが叶えられなくてもイエスは私たちのために絶えず、執り成すことを私たちは信じているからです。  私たちの捧げた祈りによって、神は必ず私たちを変容させることを私たちは固く確信しています。 執り成しの祈りによって、神は聖霊の賜物で私たちを満たしながら、ご自分の子イエスの似姿に私たちを形作るのです。

   「求めなさい。 そうすれば、与えられる。 探しなさい。 そうすれば、見つかる。  門をたたきなさい。 そうすれば、開かれる。」(マタイ7,7)とイエスは真剣に勧めています。 執り成しの祈りは次の確実さを土台とします。 先ず、主が私たちと共に祈ります。 次に、神が私たちの祈りを利用して自分たちの内に、そして自分たちの周りにご自分の国を発展させるという確信です。 アーメン。



               年間第18主日C年    201384日     グイノ・ジェラ−ル神父

           コヘレト1,22,21-23  コロサイ3,1-59-11  ルカ 12,13-21

    「財産のある者が神の国に入るのは、とても難しいことだ」(マルコ10,23)とイエスは教えました。 また「だれも、二人の主人に仕えることはできない」、「神と富とに仕えることはできない」(マタイ6,24)とイエスは忠告しました。 今日の福音を通して神の前に豊かになるように、私たちがこの世の物質の虜にならない知恵を持つことを、イエスは願っています。 こういう危険性に対して、既に第一の朗読でも警告しました。 物質的なものを所有するために人々は時間を尽くして疲れ果てます。 「一生、人の務めは痛みと悩み。  夜も心は休まらない。 これまた、実に空しいことだ」と。

    「空しい」と翻訳されたヘブライ語の「ヘヴェルHevel」は「蒸気」を意味しています。 窓のガラスや鏡に人の息を吹きかけた時に出る蒸気は、あっと言う間に消えるものです。 私たちを取り巻く近代的な設備と物質に対しての満足感と楽しみは必ず、遅かれ早かれ、私たちの手から他の人の手に移されるでしょう。 すべては空しい、すべては蒸気のようにはかないものであり、なんという空しさ、すべては空しい「hevel havalimヘヴェルハヴァリ」とコヘレトは宣言します。

    すべての人はいつか自分の弱さと空しさを体験しなければなりません。  望んでいても、望んでいなくても、私たちはこの地球に短期間だけ存在する者で、自分の墓には何も運べない通り過ぎる人間です。 イエスが人間になった理由は、審判者や遺言執行人の務めを果たすためではありません。 むしろ、人間の存在に深い意味を与えることや本当に値打ちのあるものを教え、見せるためにイエスは人間になりました。 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。  有り余るほど物をもっていても、人の命は財産によってどうすることもできないからです」と。

    人が行った素晴らしいことや所有する物や恵まれた才能によって、私たちは人の命の価値を決める傾向があります。 イエスは決してこのように判断しません。 イエスの眼差しは、先を見通し、深く人を探ります。 神の眼差しは「心とはらわたを調べる」(詩編7,10)と聖書の詩編が語ります。 黙示録の本の中で聖ヨハネはイエスに次のように言わせました。 「全教会は、わたしが人の思いと心とを見通す者であり、行いに応じてあなたがた一人ひとりに報いることを悟るようになるであろう」(黙示録2,23)と。 今日のたとえ話は、神がどのように物事をご覧になるかをよく表しています。 「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。 お前が用意した物は、いったいだれの物になるのか。」結論としてイエスは次のように加えました。 「自分のために富を蓄えても、神の前に豊かにならない者は、このような者である」と。

    問題は、たくさんの物を蓄えるよりも、神の望まれる人間になるように、私たちが努めなければなりません。 神と出会うために私たちが神の神秘に向かって生きていくことが肝心なことです。 地上の富よりも私たちは、神の内にある豊かさを見つけなければなりません。 「上にあるものを求めながら」(コロサイ3,1)神の前に豊かになることは易しいです。 上にあるものを蓄えることで、私たちの心の望みは神の意志と調和します。 というのは地上の物を欲する代わりに、私たちは神が望むことを、特に私たちの聖化を望むようになるでしょう。

    ですから、私たちが優先する物事がいつも正しい位置を示しているように注意深く気を付けましょう。  私たちの思いと心の中において神が第一でなければ、他の物があっと言う間にその場所を奪うに違いありません。 ミサ祭儀の祈りは次の大切なことを神に願っています。 「神よ、あなたを離れてはすべてが空しく、価値あるものはありません。 慈しみを注ぎ、私たちを導いてください。  過ぎ行くものを正しく用い、永遠のものに心を向けることが出来ますように。 私たちの主イエス・キリストによって。 アーメン。



             年間第19主日C   2013811日   グイノ・ジェラール神父

                    知恵18,6-9  ヘブライ11,1-28-19  ルカ12,32-48

    私たちが未来の人となるように、神の言葉は私たちを招いています。 未来が恐怖を与える世界の中で私たちは生きています。 遅かれ早かれ、襲ってくる危険を防ぐために、私たちを安心させる全ての可能性を求めながら、私たちは現在の中に避難所を見つけます。 しかし、神は忠実であり、約束されたことを必ず実現するので、イエスは私たちに信頼と希望を要求します。 信じることは恐れに打ち勝つことです。 と言うのは、信仰は物事や様々の出来事の内に有るのではなく、信仰は神と私たちの間の関係です。 神は私たちに語り、更に様々の約束をなさったので、私たちは神に対する揺るぎない信頼を示すべきです。

   初代教会のキリスト者たちは、イエスは直ぐに戻って来ると信じて、キリストの再臨を今か今かと待ち望んでいました。 ある人々は、直ぐに来るキリストを迎える為に自分の持っている物を売って人々に施しました。 他の人々は、完全に仕事を辞めて家族的な生活に対して無関心になってしまいました。 そこでペトロは、この異常な状態を辞めさせようとしました。 「神は自分の約束を守る。 …主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(2ペトロ3,8)と、ペトロは説明します。 聖パウロも皆が仕事と日常生活の活動に戻るように強く主張します。 「働きたくない者は、食べてはならない」(2テサロニケ3,10)と。 同時にルカは主が来られる時に働いている人々を褒め称えます。 「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」(ルカ12,43)と。 ところで、仕事を全く見つけられない、あるいはわずかの間に首になって失業者になる現在の大勢の人に対して、果たしてルカはこのことを言えるでしょうか。

   正直に認めましょう。 主の再臨の可能性を私たちはあまり心配していません。 私たちの行いと生き方の方向性は、仕事を持つこと、給料を貰う事、自分の夢を実現する事、また人生の災いから自分を守る事、ある年齢になれば仕事の引退の準備をする事、そして何よりも先ず健康で暮らす事です。 確かに、私たちはそんなに主の再臨を望んではいないですし、「目覚めていなさい」と言うイエスの命令に対して、関心を示していないことを認めましょう。

   しかし、イエスは目覚める事と、ご自分の再臨を現すしるしに注意を払う事を絶えず繰り返します。 この忠告を真剣に受け取りましょう。 なぜならキリストの勧めは、私たちの人生を変化させる命の言葉ですから。 イエスが世の終わりまで、毎日私たちと共におられることを充分信じていないので、私たちは希望を持つことが出来ず、未来を恐れながら生き、ましてや全く見えない神の国など待ち望んではいません。 しかし、神の国は既に私たちに与えられていて、目にはまだ見えませんが現存しています。 そこでイエスは私たちに仕える為に待っておられます。

  「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11,1)。 信仰のお蔭で私たちは自分の人生を神に向かわせることが出来ます。 神が約束された光と平和の国を目指して、主イエスの直ぐ傍にいて、信頼の内に私たちは歩み続けます。 私たちの歩みがためらいがちな歩みになっても、神がご自分の傍に辿り着く力と恵みを必ず与えるでしょう。 約束された通り、神は私たちの忠実さを報うために、ご自分の食卓に私たちを座らせてから、私たちの給仕をするに違いありません。

  「小さな群れよ、恐れるな、あなたがたの父は喜んで天の国をくださる」とイエスは私たちを励まします。 こう言いながら、私たちが本当に父なる神の愛する子供であることをイエスは教えています。 従って私たちに対する神の無限な愛の神秘について、しばしば考え、黙想することが必要です。 さもないと、世間の悩みに囚われて、私たちがこの愛に対して無関心になる危険性があります。 神の愛の確実さは正に素晴らしい宝物であり、その宝のあるところに私たちの心も置くべきだ、とイエスは願っています。 神の現存が、私たちの日常生活に染み込めば染み込むほど、私たちが行なう全ての物事に永遠の値打ちを与えます。 神の無限の愛の証人として目覚めていて、帯を締めている人であるように聖霊が私たちを助けますように、そして神の愛の確実さが私たちの心から全ての恐れを追い払いますように。 アーメン。



              年間第20主日C年  2013818日   グイノ・ジェラール神父

                  エレミヤ38,4-68-10  ヘブライ人12,1-4  ルカ12,49-53

   今日の福音は燃える火、血における洗礼、一つの家族の中で起こる分裂について述べています。 厳しい言葉で話されているこの言葉をキリストが本当に話されたかどうかについてよく考える必要があります。 というのは、ご自分の使命の真の印である柔和、赦し、平和と一致についてイエスはいつも強調しています。 また、イエスはしばしばこのように祈っています。 「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。 こうして、あなたがわたしをお遣わしになったことを世が知るようになります」(ヨハネ17,22)。 またイエスは次のようにもおっしゃいました。「わたしは平和をあなたがたに残し平和を与える」(ヨハネ14,27)と。

    イエスが断言したような分裂や対立の脅かしが、私たちを惑わせることを認めましょう。 もしイエスが“平和の君”であるなら、どうして「わたしが来たのは、地上に平和をもたらすためではなかった」と言えるでしょうか? またイエスの誕生の時に「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2,14)と歌った天使たちは私たちを騙していたのでしょうか? 私たちが良い選びをするようにイエスは私たちに揺さぶりをかけます。 「わたしに味方しない者はわたしに敵対する」(マタイ12,30)と言いました。

    イエスだけが私たちの決定と選びでなければなりません。 キリストを選ぶことは、一人ひとりの良心の深いところで決める事です。 実際、一つの家庭の中で一人がキリストを選んでいても、他の人はキリストを否定する可能性が大きいからです。福音書を書いた時に、ルカは 親戚や仲間から見捨てられ、迫害されているキリスト者たちの分裂の悲劇を考えていました。

   この世を創造した時に、父なる神が暗闇と光、陸と水、人間と動物を分けて離しました。 同様にイエスは人類の混沌となったものを分けて離すために、私たちの所に来ました。 こうして、イエスは罪びとと罪を分離して、赦された人間とします。 またイエスは病人と病気を分離して、健康で恵まれた人間を形づくります。 更に人を生き生きとした人間に変えるために、イエスは死人を死の支配から分離させます。 妬みのあるところに、イエスは愛を置きます。 誤りのあるところに真理を、絶望と悲しさのあるところに、イエスは希望と喜びをもたらします。

   私たちを囲んでいる人々の生き方から遠く離れている新しい生き方の模範を、イエスは提案します。 いくら多くの人があれこれを平気で行っていても、また、国の法律が許したとしても、その行為は良いとは言えません。 キリストによる平和が神と人類の前で、また福音と文明の真価の前ではっきりした選びを要求します。 イエスは正義と愛、平和と永遠の喜びの国をもたらすために来られたので、この世界のすべての妥協を退けます。

   預言者エレミヤは神の意志に従うことを選びました。 勇気を持って彼は自分の責任を完全に果たそうとしたので、酷い目に会いました。 しかしエレミヤは、当時の人々を真似る誘惑を退けました。 「主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります」(エレミヤ20,9)とエレミヤは告白しました。

   預言者エレミヤのように、イエスも正義の火によって燃えつくされています。 イエスは支配者たちと彼らの不正に巻き添えにされることをいつも拒んでいるからです。 火と血の洗礼を前にして、イエスもエレミヤも後ろに退かなかったので、死刑の宣告を受けるでしょう。 この火と血の洗礼を洗礼者ヨハネは前もって告げました。 「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3,16)と。 聖霊は「剣のように分裂のしるしであり、精神と霊を切り離すほどに刺します。」また「罪について、義について世の誤りを明らかにします。」((参照ヘブライ4,12とヨハネ16,8

  イエスは滅ぼすためではなく、回心をさせるために来られたことをよく知っています。 イエスの使命の目的とは、私たちの心の中に聖霊の火の強さを注ぐことです。 聖霊降臨の日に、マリアの傍に集まっている全ての弟子たちの上に降ってきたものは、この神の愛の火でした。 救いのよい知らせを地の果てまで宣べ伝えるために弟子たちを遣わすものは、この同じ神の愛の火です。 聖霊で満たされた私たちも、神の愛の火を全地に投ずるために私たち自身が燃え盛る炎となりましょう! アーメン。



             年間第21主日C年   2013825日  グイノ・ジェラール神父

                  イザイ66,18-21  ヘブライ12,5-7,11-13  ルカ13,22-30

    疑いもなくイザヤの預言を耳にしたイスラエル人は酷い衝撃を受けました。 事実、イスラエル人は自分たちが世にも稀な神の民であると思い込んでいたからです。 そこで、イザヤの口を通して神はすべての民が救いの恵みを受けると断言しました。 しかも、神を礼拝するために、数えきれない異邦人が聖なる都エルサレムに入り、その上彼らの間からご自分の奉仕をする祭司とレビ人を神は選ぶと言う考えられないことも断言されました。

   キリスト者である私たちにとって、今日耳にしたイエスの言葉も強烈な衝撃を与えるのです。 何故ならキリストを全く知らなかった人々がもろ手を広げて天の国に歓迎されているのに、イエスを信じた人々は外に投げ出されると宣言されているからです。 私たちは救いに導かれる正しい道を歩んでいますが、イエスはこれについてもう一度真面目に考え直すように願っています。確かに神の国に歓迎されるために大切なことは、カトリックであることやある信者の共同体に属することではなく、むしろ、キリストの現存の内に生き続け、キリストの教えを実現することが肝心です。 実際、これこそがイエスが話してきた「狭い戸口」です。

   ミサ祭儀に与かったり、教会維持費を収めたり、小教区の様々な活動に参加したりすることは勿論大事です。 これらが立派な信仰者の身分保障であっても、また私たちの良心に疾しいところがないとしても、この役に立ち必要である行いだけでは、天の国の狭い戸口を開けるためには足りないとイエスは言われます。 むしろ最も大切なことは、イエスが要求する赦しや兄弟的な愛や互いの尊敬や一致に生きること、そしてそれらを、具体的に私たちの間に実践することです。言い換えれば、私たちが神への愛と隣人への愛を親密に結んでいるイエスの教えを実行しなければなりません。従って私たち一人ひとりが自分の心と態度を変えた上で、キリスト者としての責任を果たさなければなりません。 イエスの厳し過ぎる言葉が不安を与え、私たちの気分を悪くするかも知れませんが、この言葉は昔、神が預言者イザヤを通して言われたことを繰り返しただけの言葉です。 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なる。 天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55,8-9)と神は言われました。

    神によって選ばれていたことは、イスラエルの民に何一つの特権をもたらさないことを、神は預言者イザヤを通して納得させようとしました。神に選ばれたことによって、イスラエルの民は世界の人々に救いのよい知らせを伝える使命と責任を受けただけです。 同様に、キリスト者であることは、私たちに何一つ特権を与えず、ただ、救い主であるキリストについて証しする責任と使命を与えられただけです。

    そこでイエスが実現したように、私たちが出会うすべての困難、思いがけない出来事、あらゆる種類の苦しみを「愛の行い」へと変化させるように神が私たちを招いています。 どうしても、私たちはキリストとの真の弟子たちとならなければなりません。 また、嫉妬と恨みから解放され、一致を心の底から望み和解した兄弟姉妹の共同体となるように、私たちは皆、勇気と強い意志を示さなければなりません。 勿論それを実現するのは至難の業です。 しかし、私たちにとって、これこそ神の国に通じる「狭い戸口」です。 アーメン。



        年間第22主日C年         201391日   グイノ・ジェラール神父

         シラ3,17-182028-29  ヘブライ12,18-1922-24  ルカ14,17-14

     たとえ話とは、日常生活の具体的な出来事を出発点にして、他のレベルに置かれている全く違った事実を現そうとするものです。 今朝、イエスは私たちに二つのたとえ話を語ります。 第一のたとえ話は、高ぶる人は低くされ、低くされた人は高くされるという結論で終わります。 第二のたとえ話は、もてなしを受けた貧しい人がその恩恵を返すことが出来ないから幸せだと宣言します。 事実イエスはこの二つのたとえ話を通して、謙遜と利益を求めないもてなしや受け入れについて語っています。

     「子よ、何ごとをなすにも謙遜であれば、どんな恩人よりも愛されるだろう。」このように進める賢明なシラも謙遜を勧めているのです。 謙遜な人は神に栄光を与え、同時に自分の上に天の祝福を引き寄せる人だ、とシラが説明します。 フィリピ教会への手紙の中で、パウロはどのようにイエスが謙遜になったか、そしてそのお蔭でどんな恵みを受けたかを説明します。 「キリストは、神の身分でありながら…自分を無にして、僕の身分になり、…人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げました。 それは全ての人が『イエス・キリストは主である』と公に宣べるためです。」(フィリピ2,6-11

     「わたしに学びなさい。 わたしは柔和で謙遜な者だから」(マタイ11,29)とイエスは言いました。 イエスは僕として皆に奉仕するから謙遜な者です。 全ての人が自分の世話をして欲しいと要求する高慢は、謙遜に敵対しています。 末席を選ぶことは、全ての人に仕えたいことをはっきり示すのです。 反対に上席を奪うことは、全ての人を自分の奴隷にさせたい野望を表わしているのです。

     第二のたとえ話を通してイエスは、利益を求めないもてなしや受け入れについて語っているのです。 私たちは皆自分たちの意見を分かち合って、自分たちが好きな人を友とする傾向を持っています。 必要であれば私たちはいつも彼らに仕えることを覚悟しています。 それとは反対に、私たちと関係が薄く、いらだたせ、迷惑をかける人を私たちは簡単に避け、また無視する傾きを持っています。 しかしながら、イエスは特に私たちが謙遜にこのような人たちを受け入れ、彼らにもてなしを与えることを要求しています。

     実に私たちが偏見なく、報いや利益を得ようとする望みを抱かずに、また極自然に無償で謙遜に人を受け入れるようにと、イエスが教えようとしているのです。 ありのままに他者を受け入れることは、謙遜の行いです。 謙遜とは、神の僕となることと同時に、互いを互いに仕える僕となることです。 神と隣人に対する私たちが示すよい関係の質に、私たちの個人的な価値があります。

     安息日に当たって祝いの食事の雰囲気の中に、イエスは二つのたとえ話を話しました。 今日もまた、イエス自身が祝いの食事の雰囲気の中に私たちを招いています。 日曜日はいつも祝い日です。 いくら私たちが良い行いをしながらも、悪い欠点を持っているにも拘わらず、イエスは遠慮なくご自分の喜びと平和を分かち合うように私たち皆を誘っています。 私たちの一致を実現するように、このミサ祭儀を通して神は謙遜に私たちに仕える僕となるでしょう。 そういう訳で司祭は、「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と宣言します。 ですから、このミサ祭儀を通して、どのようにイエスは私たちの世話をするかを見てから、今度私たちもキリストを真似て兄弟姉妹の世話のために、謙遜に全身を尽くしましょう。 他の人々と真の兄弟的な絆を持つために、利益を求めない謙遜やお返しを求めないもてなしや単純な受け入れは、避けられない条件です。 このように行えば、私の存在はとても美しく、とても楽しくなります。 それは丁度、完璧に実現した祝いの食事と同じようです。 アーメン。




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